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2005年09月16日
スパイダーマンは成功法則の夢を見るか?
ちょっと間が空きました。
さて、映画版スパイダーマン1のラストボス、これは親友の父親です。
ここで、ちょっと話がそれますが、トビー君は、伯父さんと住んでいた、というのを思い出したいと思います。
なぜかというと、結局、トビー君が女の子に懸想wしたのが、スパイダーマンとしての能力を手に入れる結果になった。
その力でちょっと美味しい思いをして、女の子を乗せる車を買おうとした。
その直前にこの伯父さんは、成長し、力を持った大人になるというのは責任を持つということだ、と説教する。トビー君はそれを無視して、そのあとで伯父さんは殺されてしまう・・・。
この伯父さんは、父親代わりですね。
そして、ラストボスの親友の父親の科学者。これも、トビー君を家族同様だ、といいます。やはり父親像です。
トビー君にはどういう事情か、実の父親がいない。そして、複数の父親を持ち、その一人を失い、最後にはその父親代わりを倒す。
父親殺しの物語ですね。アメリカ映画で、父親がラストボスになっているか、母親がラストボスになっているかは、注目すると結構面白いです。
スターウォーズとか、マトリックスとかはみんな父性が倒すべき敵になっている。
メメントという映画だと、これはちょっといいスリラーが見たいというときにいい映画ですが、これはもう母性、女性がその背後にある。聖女としての女性と、悪女・魔女のとしての女性。
どうも、父親を倒すお話のほうが、爆発的なヒットになりやすいような気がしますが、これは数を見ないとわかりませんね・・・。
ただ、伝統なのかマザーネイチャーなのか、台風にカトリーナとかマリアとかオフィーリアとか、女性名を付けるのはどうなんでしょうね。
アメリカは男女同権が強い国で、女の人の鼻柱も非常に強いけれどw、やっぱりそういう女性に対する見方ってあるのでしょうかね・・・。男尊女卑というより、女は怖いというw・・・。
はなしがずれました。
で、このラストボスの科学者。この人の時計は、物語がはじまる前の段階では12時5分くらいです。
この人は、自分で会社を興して、アメリカ陸軍だかにいろいろな兵器を売って巨万の富を得ている。なにせ、あのニューヨークのビルのてっぺんに屋敷を持ってる。ドナルド・トランプ並です。
で、今は人間を強化する薬を開発している。でも、危険でまだテストができない。でもそのテストを今やらないと、契約がライバル会社にいっちゃう。
なので、結局自分で試す。ここはまだ偉いですね。でも、やっぱり半分失敗で、性格がおかしくなってしまう。
おかしくなって、体が強化されて、会社の兵器を使って空飛んで、ライバル会社の新兵器とか取引相手の将軍とか、みんな殺してしまいます。
おかげで契約が取れて、株価もあがってもう絶好調。と思っていたら、こんどは役員会議で会社をライバル会社に売ってしまう、しかも彼本人は社長を首って決まってしまう。
そしたらこんどは、会社で主催するパーティのときに、またもや役員全員を殺してしまう。
それで立場は安定するんだけど、でも道徳的にはどんどん悪い方向へ向かってしまっている。時計が何度もぐるぐる回っている感じです。
その過程で、スパイダーマンと何度か戦って、一度は誘惑しようとする。この街(ニューヨーク)に住む800万の人間たちは、自分たちのような人間に利用されるためにいるんだ、と。
もちろん、勉強時間やバイト時間、はては最愛の人への思いまで犠牲にして悪と戦うトビー君には通じません。ちょっとだけ話がずれますが、この形の自己犠牲も、「史上最大の作戦」からの伝統があるような気がします。
ヨーロッパ開放や日本帝国打倒のために戦っているはずなのに、銃後の恋人や奥さんを寝取られちゃう。
それはともかく、物別れに終わった二人は、最後の決戦を迎えます。
ラストボスの科学者は、トビー君の想い人キルステンを誘拐して、トビー君を誘い出します。
すいません、長くなってきたので、またちょっと続きます・・・。すいません・・・・
投稿者 itoh : 12:21 | コメント (0) | トラックバック
2005年09月09日
スパイダーマンは成功法則の夢を見るか?
今日は映画のはなしをさせてください。
いや、決してけしてケッシテいきなりネタが切れたわけでなく・・・。
スパイダーマン、1のほうです。
最近2が出ましたけど、まずは1から・・・。
これについてつらつら語りつつ、神田昌典さんの本まで話をつなげたいと思います。
(え?)
今日は映画のはなしです。
いや、決してけしてケッシテいきなりネタが切れたわけでなく・・・。
スパイダーマン、1のほうです。
最近2が出ましたけど、まずは1から・・・。
これについてつらつら語りつつ、神田昌典さんの本まで話をつなげたいと思います。
(え?)
ええと。どういうことかというと、起業を志すときは避けて通ることのできない成功法則。これ、ほとんどがアメリカからやってきたものですが、これとアメリカの物語にある関係・関連が面白いと。
今回はそういうちょっと斜めにずれたお話です。
スパイダーマンのストーリーの解説はとりあえず検索してみてください。
こちらの本、
| クリエイティヴ脚本術―神話学・心理学的アプローチによる物語創作のメソッド | |
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これは神話的な法則にしたがって物語を読み取ろうとしている本です。
基本的には、丸、ホイール、あんな形のが物語の基本だと。
まあ、字だけで説明するのに、針が一本しかない時計でイメージすると、まず主人公が6時のところにいる。下のほうです。
それがぐぐっと回って、上昇して、12時に来る。これがハッピーエンディング。
一方で悲劇に終わる人・物語というのは、12時から始まる。まあ、上昇の過程が必要でしょうから、11:30分とか、11:45分くらいから始まる。
で、12時にくる。そこからだんだんだん落ちていって、6時で終わる。どん底や、と。
マクベスなんかはこれでしょう。最初にマクベスは王様を殺して、自分が王様になる。ここで12時です。
でも、だんだん罪の意識とかにさいなまれて、2時、3時、とすすんでいっちゃうw
そして結局は殺した王様の遺児に殺されちゃう。ここで6時です。
じっさいには、この時計はひとつの映画とかでどんどん何回転もするでしょうし、あがっていく話・12時で終わるハッピーエンドの話だと、11時から12時にいくのがすごい大変w
というがあるのですが、基本はこれだと。
で、スパイダーマン、ええと、1はトビー・マグワイヤ(ワンダーボーイなんかで好きでした。これもいい映画です)こと、ピーター君、これが非常なガリベンタイプの、いわゆる女に奥手の、サエナイもてないいけてない高校生です。
ひょんなきっかけでこのピーター君がスパイダーマンとしての力を得る。まずこのきっかけ。
社会科見学で、好きな女の子キルステン・ダンストの写真をレポートに必要だといって、蜘蛛の入ったケースと一緒に撮らせてもらっていたら、逃げ出した改造蜘蛛にカプリっwとやられた。
これでスパイダーマンとしての能力を得る。ここ、まずは性欲です。 ここポイントです。
日本の成功本でよく引用されたのがマトリックス。とにかくお前はできるんだと。それをイメージするんだと。そうすればできるんだと。
スパイダーマンでは、その前に、性欲でアクシデントで思わぬ力を得てします。まずは、動機はいいから何でも行動しろとw
スパイダーマンのここも、わりとよく成功本で書かれている原則と一致します。最初は欲に従ってでも行動しろと。
(これは、成功本が正しいか、というんじゃなくて、どこまでその背後にある哲学が、物語に反映しているか、というテストです)
で、そこからまだ彼は正義の味方にはなりません。この力を使って、闇レスリングに出て、賞金で車を買ってダンストを乗せてドライブしようと。まだ性欲ですねw
ところが、勝ったのに主催者が難癖つけて賞金をくれない。しょぼんとして帰ろうとする。そこで強盗が出て、主催者から金を取る、ところがトビー君はすねているもんだから見逃してしまう。
そこで外に出ると、迎えに来るはずだった親代わりの伯父さんが、その強盗に撃たれて死んでいる。その伯父さんは、その前に、トビー君に説教してますね。
お前は成長していると。でも、成長した男ってのは、自分の持っている力に責任をもたないといけないんだと。
その伯父さんが、トビー君の責任の無さのせいで死んでいます。トビー君はこれを十字架として背負って、スパイダーマンとして犯罪者と戦う決意を固める、と。
まあ、このあとごちゃごちゃあって、さいごにはキルステン・ダンスト、ちょっと高校生にはふけてみえるんですけど、まあこの子に告白してもらう、と。
ただ、これ3まで作るので、そこではその告白を拒否してしまう。でも一応のハッピーエンディングです。
告白はされていて、その意味では12時です。ただ、それを受け止める準備が、続編を作る都合上ないというだけで。
ここでちょっと視点を変えます。
敵のほう。この映画のメインのラストボスは、スパイダーマンの親友の父親の科学者。
こちらに視点を置くと、こんどはこれが、12時から6時に落ちていく話になります。
ここまでで、長くなったので続きは次回・・・
投稿者 itoh : 12:50 | コメント (0) | トラックバック
2005年09月02日
物語る?
なんだかごちゃごちゃ抽象的な話をつづけてすいません。
でも、これは人がなぜお金をやりとりするのか、というのに通じるものだとわたしは考えています。
だから、最初にブログでへたくそでもかたちにしておきたかったのです。
さて。
人は、物語の中を生きている、というところまでお話ししました。
では、その根源的な物語とはなんでしょう?
それは・・・
人は、自分自身がこの宇宙で唯一の特別な存在である、という物語を生きているのです。
あるいは、うまくいえませんが、そうした物語を生きるべく運命づけられている、といいますか・・・。
それが良いほうに働けば、Self-Respectがしっかりでき、自身にあふれ、自分への尊敬を元に他人ともいい関係が築ける、そんな人間になれると思います。
それが悪いほうに働けば、その場合、ただ他人をやっかみ、他人を貶めることでしか自分を愛せない人間になってしまいます。
もちろん、それは両極端で、たいていの人は、その中間をあっちへいったりこっちへいったり、とすごしているのだと思います。わたしは、どちらかというと悪いほうに近いところをうろちょろしてますでしょうか・・・。
そうした傾向を確かめる証拠として、ひとつの人間が他人を評するときの物語があります。
それは、あいつには○○が欠けている、です。
あの人には、恋人として・夫として・上司として・友人として・企業家として・部下として・同僚として・政治家として・ブロガーとして、○○が欠けている。
それが、おそらく人が他人を批評するとき100%に近い形で物語るストーリーです。
そして、人がそうした物語を語るとき、その本人は透明なそんざいとなってどこにも存在しなくなってしまいます。
括弧をくくる、といいますが、つまり「棚にあげる」のです。
そして、自分が同じような目にあったとき・・・たいていの人はそれが「特別」な理由によってやむなくそうなってしまったと結論づけます。
すくなくとも、全ての面において、自分を特別扱いした物語をぜったいに物語らない、という人はいないと思います。
唐突ですが、自分を棚にあげるのではなく、たぶん他人の全てを棚にあげて愛そうとしたのが、ジーザス・クライストで、自分を棚にあげるというその自分すら無くしてしまい、かつそれを人にもすすめたのがお釈迦さまなんじゃないか、と思っています。
もちろん、いまの世の中で、お釈迦様のように悟ってしまう必要はありませんし、だいいちたぶん不可能です。
ただ、今日の商売は、そうした「他人の特別な自分」をあいてに行うわけで、人が、あいての「特別な自分」を尊重しあう、ということが大事じゃないか、と考えています。
そして、その過程で、「棚に上がっている自分」を、お釈迦様になったつもりで眺め、「自分を棚に上げている他人」をジーザス・クライストになった気分で見つめてみると、そこにお金を稼ぐ鍵が潜んでいるのではないか、と思います。
自分が売りたいものではなく、人が買いたい物を売る、人を利用するのではなく、人を助ける、というように・・・。
なんだかあやふやな話になってしまいました・・・
ついでに、上のことは自分では実践しようとしてもできてないことばかりです・・・
ううむ。
次は、もっと違った物語について語りたいとおもいます。
ではでは。
投稿者 itoh : 11:40 | コメント (0) | トラックバック
2005年09月01日
物語る? マーケティング2
前回、ふつう、人間はある種の物語や思い込みによって生きている、と書きました。
それはどういうことか?
以下は、前回紹介した本を読んで理解した、わたしなりの考えです。
人間は、なにをするために生きているか?
人間は埋めるために生きているのです。
埋めるとは何を?
「欠落」を、です。
のどが渇けば、水を探さなければなりません。お腹がすけば、食べものを探さなければなりません。
お金が無くなれば、働かなくてはなりません。
それだけじゃありません。
恋人がいない、持てない、お金が無い、瘠せていない、ファッションセンスが無い、あるいは流行のナにそれを持っていない、貯金が無い、包茎である、貧乳である、目鼻の形が悪い、その他もろもろの欠点を、あなたは埋めなければいけません。
そして、あなたはその欠点・欠陥を生めるために行動を起こします。この資本主義の世の中では、それは殆どの場合、お金を払って何がしかのサービスを受けることに直結するか、関連しています。
実は上のほうの「欠点」は、男性向け女性向けのファッション雑誌を買ってきて適当にみつけてみたものです。
もちろん、上記のようなものは、ある意味で宣伝によって自分の「欠落」に気付かされただけ、というのもあるでしょう。
ですが、人間は、他人よって「欠落」を気付かされるだけの存在でしょうか?
それとも、最初から、「欠落」を背負って生まれてきて、それを「回復」しなければいけないという思い込みとともに生まれてくるのでしょうか?
わたしは、後者だと思います。
「欠落」を「回復」したいというのが宗教で言うところの人間の煩悩・原罪で、これを克服できる人間など何百万人に一人で、だからこそ宗教では阿弥陀様やイエス様などの救済が必要になってくるのでしょう。
秦の始皇帝、当時の世界観ではまさに全人類の主となった人でさえ、「不老不死」を求めました。
「死ぬ」という「欠落」を回復しようとしたのです。(もっとも、部下が差し出した適当な薬の飲みすぎで健康を害して死んでしまいましたが・・・)
昔は、より原始的な「欠落」を追い求めていたのだと思います。(つまり、もっと脳の原始的な部分が反応する欲望--食欲など)
いまは、そうした原始的な欠落が一段落し、より高度な欠落を追い求める時代なのだと思います。
(つまり、脳みその、もっと後のほうで進化した部分が感じる欠落)
たとえば、いまは失業したって、いきなり餓死するということはない、というくらい食べ物はあふれています。食べられる、ということは、とりあえず普通に働いていればほぼ過不足無く食べられます。
人間は、それで満足するでしょうか?
いいえ。こんどは、その食べ物が、あなたのどんな欠落を回復してくれるのか、を気にします。
健康促進、とか、瘠せる(?)とか、美容にいい、とか・・・
なぜなら、人間は、つねに自分は不完全であり、その不完全さを克服したい、あるいはしないといけない、という物語の中で生きているからです。
そして、いま、「食べる」ということに関して少なくとも命がけに努力しなくても良くなった少なくとも先進諸国では、ある意味で、すべての人間が始皇帝のような望み/欲望をもって生きていけるといえます。
それが、いまのニーズからウォンツへ、というマーケティング界の変化だと、思っています。
すいません、ながながと書きましたが、まだちょこっと続きます。

